瞑想についてお話させていただきます。
瞑想はいろんなやり方があります。そして瞑想をする意味も個々にあります。
瞑想をしている方はおられますか?
今日は瞑想の奥義を教えますね。
その前に私の思い出話を少しします。
今から10年前に私は子どものボランティアグループを主宰しており、そこで瞑想の素晴らしさを体験して頂こうとチラシをつくり、市の掲示板に貼っていただこうとお願いしたところ宗教だと、かあやしいだとか、こばかにされました。瞑想と言うだけで、チラシを貼って頂けないという出来事がありました。
今では懐かしい思いでです。そして、最近では映画俳優など有名人が瞑想をやっているというので、宗教でもない、ただ心を落ち着かせる為のものであると言う認識にかわり、学校でも取り入れるようになって来ました。
私も中学校で瞑想を教える機会が与えられ8年前だったと思うのですが、やらせていただきました。あの頃では瞑想はまだそんなに流行していなかったのでそれを学校でやらせていただけたのは画期的だったのではないかと思います。
私の昔話をさせて頂いたのですが、私に取って瞑想は特別なものではなく日常が常に瞑想な感じです。
どういう事かといいますと、まずスタイルが全く違います。多くの方は座禅などをして瞑想をしているそうですが、私は家事をやったりしている間にも瞑想をしています。
良く瞑想をしていると無になるといいますが、初めからそのような状態になっている方ならば瞑想は要らないように思います。
『瞑想とは』
それは、ただここにある自分を自分が認める事、私は『ありてあるもの』だと言う事が解るようになる為のメソットとして思って頂けると嬉しいです。
これが簡単なようで難しいのです。
人間は感受性と言うものがあるので、自我がこれを許しません。
・自分がダメな人間じゃないか?
・あの人は出来て私には出来ない!
・私は醜い!
・私は優しくない!
・私はあくどい!
・私は意地汚い!
・ダメな人間なのだ!
・私には愛がない!
・などなど、、、、
このような思考におちいるのは、自分《私》の自我が今を体験する為に、沢山の感情(感受性、情緒)を生まれ持ってきます。そして自分のストーリーに『この感情を味わう』と書き込んでいます。
そして自分《私》というものが『ただここにあるだけのもの』という思考や感覚または感情からかけ離れた所で生きてしまう事になります。
自分《私》は思考にとらわれ、分離をひきお越します。
つまり
私はただ
『ありてあるもの』
なのに
自分《私》が私にかけた自縛を持っている為に
自分《私》がありてあるものとして受け取る事が出来なくなってしまう事
自分《私》が私を否定したら、自分《私は》私からどんどん離れてしまいます。
これが
『分離』
と言う状態です。
さてこの分離していると言う事なので、これを瞑想で統合すればいいのです。
今自分が感じている事を全部自分が受け取って、ダメな自分を自分が認めてあげるだけなのです。そして自分の自縛をといて行きます。
私は以前『完璧主義者』でありました。その為にとことん正義を振りかざしてきました。そうエネルギーが枯渇して動けなくなりました。
分離は自他とのバランスをとる。
と言う事ではないのです。
どこまでも、自分だけの問題なのです。
『正義と完璧』しか許さないのでがんばりました。
人に文句を言わせないようにがんばりました。
それが正しいと思いました。
仙人のようになってさとりを開こうと思いました。
どこから見ても完璧な主婦でお母さんでした。
それでも、DVを受けてしまいました。
それは『正義と完璧』でないと生きていてだダメ。
そうでない自分《私》を自分《私が》深い所で知っているために
ただここにある自分《私》が自分《私》を認めていないと言う事がわかったのです。
私は、大抵の時間は(立っている座っているまたは作業している時も)自分が何を感じているか自分の繋がりを感じて、その元をさぐったり、浄化したりしています。少し変わっていますが、思考とハートどちらも使い自分と対話をしています。
これが私の瞑想法です。
もっと詳しい事がききたければ、下の企画に来て直接質問などしていただければ嬉しいです。
ワークショップ、リトリート、セッションを受け付けています。
ワークショップの内容も詳しくていさいして頂いた神野未亜さん主催者に感謝します。
未亜さんの声紋分析もあります。
自分が今どんな感じなのか分かるので試しに来てくださいね。
よろしくお願いいたします。